2006/02/25始動
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ごしです。やっほー。
久々にブログ書きに来た気がします。つか最近ブログの存在忘れがちです。一応勉強に勢いれてるからでしょう……。
しかし今日は、そんな勉強時間を削ってでも書きたくなったので書きます。要は嫌になったから現実逃避……に近いですかね。
さて。お題は「死について」
生きているモノ、死が必ずあります。これは平等ですよね。
最近国試勉強してて、法律関係とかもやるわけですが、そこやっててなんか色々考えるわけです。
死んだらどうなるんだろう……と。
人の思考は電気信号から成り立ってるみたいです。
死んだら止まります。呼吸とかも止まるから苦しいのかなと思いつつ、しかしそれを感じる事もできなくなるわけですからはたまた本末転倒。
寝るときと同じ感じで二度と目覚めない……って考えると寝れなくなります。小心者。
ま、今に始まった思考じゃないわけですが、これ考え出していつも思うことがあります。
死ぬのって嫌だよな……と。
しかしながら、以前とある友人にこのこと話したらこう返されました。
「別に死んだら何も感じなくなるからむしろ楽じゃね?」と。
……これに反論したわしであります。でも明確な裏付けのある事は何もいえませんでした。
だって死んだらどうなるとかわからんし……。
ま、死生観は人それぞれってことで、よくよく考えればそれもありかとおもえなくもないわけですが……個人的には釈然としません。
死んだら今まで積み上げてきたモノが全て崩れ去る……ような。
そんなの勿体ない……ような。
良くアニメとかゲームとか小説みたいなフィクションの世界では人がばっさばっさと死んでいったりしますね。いえ、現実の世界でももちろんですけど。
演出の関係上仕方ないと思いますが、実際死んでいった人たちのそれまでのモノがそこで終わっていると考えると、余り良い気分はしません。
わしの子供の頃、ひいじいちゃんが死にました。その時わしは小学……2年か3年ぐらい?
葬式に出たのはそんときだけですね。ひいばーちゃんが死んだときはセンター試験直前で親に止められたのでいけませんでした。
わしの家系、長生きみたいなんです。
ま、そんとき感じた感情は何もありません。あー死んだんだ、ぐらい。
わしってドライ……?
だから正直、死ぬって事がわかりませんでした。今でもそうかもしれません。
後10年ぐらいしたら、その他身近な人たちが死ぬでしょうね……。そうなったらわしは悲しむのでしょうか。
例えば、母親が明日突然死ぬとします。……うわマジこまる。
しかし、わしが泣くかどうかといえば……まぁ泣くかもしれませんが、それよかその後どうすっかー弟まだいっぱいいるしわし養うことになるんか?つかメシとかつくらなあかんの!? という思考が浮かび上がります。
……ホントにわし、悲しんでるのか?と言いたくなりますね。
やっぱわし、何か感情が飛んでる気がします。心の底からの共感が出来ない……のかもしれません。わかりません。
……ま、こんな感じと仮定してみました。他人が死ぬのは嫌っぽいです。
で、わしが言いたいのは自分の死についてでして。話がずれてました。
考えてみた結果、わしが嫌だと思うのは築き上げてきたモノが崩れるからだなのだと思います。よくわかりませんが……。
というわけで、自殺とか絶対したくありませんね。自殺する奴とかありえねぇ、って考えてます。
しかし、ここで一つ視点を変えてみます。
例えばわしが明日ものすごい事故に遭い、しかし奇跡的に助かったとします。
全身芋虫姿で。
目も潰れ、手も足もない状態で動くこともできません。うなるだけ。しかも自分の命は機械任せ。
……うわマジ自殺するわこれ。つか気が狂うかもしれません。
例えば右手だけでもかろうじて残ったとかだったら……その辺のモノ使って自殺量る可能性ありますね。
結局の所、全ては環境次第ってことですかね?人の気持ちは移ろいやすい……
……いや、わしにとってはその状態で、築き上げたものが崩れたと認識したからでしょう。=死んだと同じ。
この状態から立ち直れる人って、すごいですね。よっぽどの精神してないと無理なんじゃないかなぁ……。
やっぱ人間、初めっから無い状態でいるのと、有る状態から無い状態に移るのじゃショックの受け方が違います。損失ってキツイ。
……よく考えりゃ、手のない人とか可哀想と言う奴いるが、その人らにとっては初めから無いわけだし、その状態について嘆く人間はあまりいないいんじゃないかと思うな。他人と比較していじめられるとかして落ち込むことはあるかもしれんけど。
閑話休題。
やはり死についての思考は、人それぞれなんでしょうね。
出来事に対し、大丈夫な人もいればダメな人もいる。そりゃ人間、芋虫になったら死にたくなります。
そういった意味では、死とは人の権利なのかもしれません。辛くなったときの最後の手段。何もかも感じなくなって、おじゃんにできる奇跡。
でも、わしはやっぱり(今の時点では)自殺には反対ですね。
だって、死ぬのはいつでもできるし。芋虫とかにならんけりゃね。
逆に言えば、生きるのは限られてる。生きたいと思っても生きられない人がいる。そんな人たちを前にして、生きる権利を放棄するのは正直どうかと。
削除したら終わりなんですよ。アナログの世界は。デジタルの世界なら戻るで復元ですけどね。んな事は出来ない。
死ぬ前に、芋虫の自分を考えてみて、それよかマシだと今の自分が思えるんだったら、止めるべきだとおもいますね。
人には、死ぬ権利があるとは思います。
しかしながら、世の常として権利には義務がつきまといます。
わしはそれが、生きる義務ではないかと思えます。
生きれるだけ、生きなきゃならんのよと。
重荷のように思えるかもしれませんが、その重荷を補って余りあるだけの楽しいことも世の中にはあるんじゃないかなーと。何? 無い? 調べ方が足らんよそれは。
ま、そんなことを書きたくなった今日この頃。実に20分で書き上げた割には意外にまとまったかな?
というわけで、勉強再開してきまー。
みんな受かるといいねぇ。
久々にブログ書きに来た気がします。つか最近ブログの存在忘れがちです。一応勉強に勢いれてるからでしょう……。
しかし今日は、そんな勉強時間を削ってでも書きたくなったので書きます。要は嫌になったから現実逃避……に近いですかね。
さて。お題は「死について」
生きているモノ、死が必ずあります。これは平等ですよね。
最近国試勉強してて、法律関係とかもやるわけですが、そこやっててなんか色々考えるわけです。
死んだらどうなるんだろう……と。
人の思考は電気信号から成り立ってるみたいです。
死んだら止まります。呼吸とかも止まるから苦しいのかなと思いつつ、しかしそれを感じる事もできなくなるわけですからはたまた本末転倒。
寝るときと同じ感じで二度と目覚めない……って考えると寝れなくなります。小心者。
ま、今に始まった思考じゃないわけですが、これ考え出していつも思うことがあります。
死ぬのって嫌だよな……と。
しかしながら、以前とある友人にこのこと話したらこう返されました。
「別に死んだら何も感じなくなるからむしろ楽じゃね?」と。
……これに反論したわしであります。でも明確な裏付けのある事は何もいえませんでした。
だって死んだらどうなるとかわからんし……。
ま、死生観は人それぞれってことで、よくよく考えればそれもありかとおもえなくもないわけですが……個人的には釈然としません。
死んだら今まで積み上げてきたモノが全て崩れ去る……ような。
そんなの勿体ない……ような。
良くアニメとかゲームとか小説みたいなフィクションの世界では人がばっさばっさと死んでいったりしますね。いえ、現実の世界でももちろんですけど。
演出の関係上仕方ないと思いますが、実際死んでいった人たちのそれまでのモノがそこで終わっていると考えると、余り良い気分はしません。
わしの子供の頃、ひいじいちゃんが死にました。その時わしは小学……2年か3年ぐらい?
葬式に出たのはそんときだけですね。ひいばーちゃんが死んだときはセンター試験直前で親に止められたのでいけませんでした。
わしの家系、長生きみたいなんです。
ま、そんとき感じた感情は何もありません。あー死んだんだ、ぐらい。
わしってドライ……?
だから正直、死ぬって事がわかりませんでした。今でもそうかもしれません。
後10年ぐらいしたら、その他身近な人たちが死ぬでしょうね……。そうなったらわしは悲しむのでしょうか。
例えば、母親が明日突然死ぬとします。……うわマジこまる。
しかし、わしが泣くかどうかといえば……まぁ泣くかもしれませんが、それよかその後どうすっかー弟まだいっぱいいるしわし養うことになるんか?つかメシとかつくらなあかんの!? という思考が浮かび上がります。
……ホントにわし、悲しんでるのか?と言いたくなりますね。
やっぱわし、何か感情が飛んでる気がします。心の底からの共感が出来ない……のかもしれません。わかりません。
……ま、こんな感じと仮定してみました。他人が死ぬのは嫌っぽいです。
で、わしが言いたいのは自分の死についてでして。話がずれてました。
考えてみた結果、わしが嫌だと思うのは築き上げてきたモノが崩れるからだなのだと思います。よくわかりませんが……。
というわけで、自殺とか絶対したくありませんね。自殺する奴とかありえねぇ、って考えてます。
しかし、ここで一つ視点を変えてみます。
例えばわしが明日ものすごい事故に遭い、しかし奇跡的に助かったとします。
全身芋虫姿で。
目も潰れ、手も足もない状態で動くこともできません。うなるだけ。しかも自分の命は機械任せ。
……うわマジ自殺するわこれ。つか気が狂うかもしれません。
例えば右手だけでもかろうじて残ったとかだったら……その辺のモノ使って自殺量る可能性ありますね。
結局の所、全ては環境次第ってことですかね?人の気持ちは移ろいやすい……
……いや、わしにとってはその状態で、築き上げたものが崩れたと認識したからでしょう。=死んだと同じ。
この状態から立ち直れる人って、すごいですね。よっぽどの精神してないと無理なんじゃないかなぁ……。
やっぱ人間、初めっから無い状態でいるのと、有る状態から無い状態に移るのじゃショックの受け方が違います。損失ってキツイ。
……よく考えりゃ、手のない人とか可哀想と言う奴いるが、その人らにとっては初めから無いわけだし、その状態について嘆く人間はあまりいないいんじゃないかと思うな。他人と比較していじめられるとかして落ち込むことはあるかもしれんけど。
閑話休題。
やはり死についての思考は、人それぞれなんでしょうね。
出来事に対し、大丈夫な人もいればダメな人もいる。そりゃ人間、芋虫になったら死にたくなります。
そういった意味では、死とは人の権利なのかもしれません。辛くなったときの最後の手段。何もかも感じなくなって、おじゃんにできる奇跡。
でも、わしはやっぱり(今の時点では)自殺には反対ですね。
だって、死ぬのはいつでもできるし。芋虫とかにならんけりゃね。
逆に言えば、生きるのは限られてる。生きたいと思っても生きられない人がいる。そんな人たちを前にして、生きる権利を放棄するのは正直どうかと。
削除したら終わりなんですよ。アナログの世界は。デジタルの世界なら戻るで復元ですけどね。んな事は出来ない。
死ぬ前に、芋虫の自分を考えてみて、それよかマシだと今の自分が思えるんだったら、止めるべきだとおもいますね。
人には、死ぬ権利があるとは思います。
しかしながら、世の常として権利には義務がつきまといます。
わしはそれが、生きる義務ではないかと思えます。
生きれるだけ、生きなきゃならんのよと。
重荷のように思えるかもしれませんが、その重荷を補って余りあるだけの楽しいことも世の中にはあるんじゃないかなーと。何? 無い? 調べ方が足らんよそれは。
ま、そんなことを書きたくなった今日この頃。実に20分で書き上げた割には意外にまとまったかな?
というわけで、勉強再開してきまー。
みんな受かるといいねぇ。
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久々にこの部分いじったわ。
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