2006/02/25始動
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地道な積み重ねこそ、難しい。
ごしでやんす。
実は、昨日から地味にカレンダーのしたにカウンターを置いています。
いやはや、こんな機能があったなんてしらなかっt(ぁ
まぁ……やっぱ色々探してみるモンですね。
で、思ったんですが……何気に来客数?が多い気がします。
ってのは、このブログあんまり人に教えてないんですよ。
なのに昨日……10件もあるみたいで。
数えてみたら、まぁ7件までは心当たりがあるんですが……
後3件、何者ですかn
ま、未知の人ですよね。
未知なる襲来。
やばい、ちょっと惹かれるかも(ぁ
さて。
訳のわからんことでウハウハ発情してても始まりませんね。
今日もぐりぐりと人生を闊歩していきましょうか。
不思議な思考って、好きです。
普通じゃないモノにあこがれます。
普段見られないものって新鮮味があります。
普通って、何だろう。
普通は、自分の中の基準で決まるモノでしょうか。
とすれば、そのひとにとって一番の『普通』は自分になるのでしょう。
わしは、他人と比べて自分が普通でない、と考える癖があります。
まぁ要は?自分は特別なんだよどうだ偉いだろ的な思考です。有り体に言えば。
では、ここで自分を普通と置いてみましょう。
自分以外を見渡してみます。
……ふむ。
おお ゆうしゃよ しんでしまうとは なにごとd(ぁ
……違う違う。どっかのパクリだ。
おお どこに ふつうのひとが いるのだろうか。
そういうことですね。
友人を普通と置いてみましょう。
……あ、わし普通じゃねぇな。
でも、わし以外にも普通じゃないのいるよな……
ってなわけです。
普通は、一人じゃ決められません。
普通は、広く周りを見渡して初めて言える言葉です。
普通を知るには、広く世界をしらなきゃなりません。
普通は基準。でもその基準を知るためには、多くを知らなければならない。
微妙に矛盾してますね。基準を知りたいのに、いつの間にか周りを見ている。
基本的に、人は普通に沿って行動しようとします。
その時、その人の「普通」はその人自身が決めています。
普通って言うバリアーに守られていたいんですね。
でもそれじゃおもしろくないから、少し冒険してみる。
この辺が普通だから、ちょっと外れたところに居てみよう。
でも、いざとなったら普通圏内に戻れる位置。
それが、人が最も好む位置なんだろうと。
たまに、普通でない人たちがいます。
その人達は、わしらの「普通」バリアーの外にいます。
わしらはそれをみて言います。
「あいつらはアフォか」と。はたまた「あいつらはすげぇ」と。
皆、普通バリアーの外は蔑視される所であると同時に、羨望として見られる位置でもあるわけです。また矛盾。
そういった人たちには、2種類考えられると思います。
一つは、そこがその人達の「普通」である場合。
先ほども言いましたが、普通バリアーは個人が決めることです。
ですから、わしらからみれば普通外でも、その人達にとっては普通内なわけで。
結局、バリアー内でぬくぬくしてるわけです。
わかる人にはわかるバリアー。つまりはその人達も「普通」に過ぎません。
この人達は、周りを狭い視点で見てるのでしょう。だから一般的普通からは外れている。
しかし、広く見渡せば、その普通は徐々に一般普通に近づいていくこととなります。
時間が経てば、自ずと普通になっていく。長持ちはしない特別。
この特別を保つには、人との関わりを避けるしかないでしょう。
でも、普通バリアーはそもそも人との関わりを持って成るモノ。
すなわち、関わりを断つことでバリアーは消える。
普通の加護の元で生活してきた人が、そこからはい出すのは非常に難しいです。
結局、長続きは滅多にしないモンです。
もう一つ。
「普通」の基準はわしらといっしょであるが、それを極度に嫌う「天の邪鬼」の場合。
この人達は、普通バリアーで守られることをウザイと思っているわけです。
あえて自分の身を危険?な位置に置いておく。
自分の基準にあえて逆らうこの人達は、一体何者なのか。
そうすることで、自分たちに浴びせられる「蔑視」「羨望」の眼差し。
そういったものを好む人たちです。要は特別扱いを好む人たち。
計画的ですね。なかなか狡猾な。
でも考えてみれば、この人達には普通がちゃんと理解できているわけです。
本質では普通。
結局、特別ではないわけです。
さて。訳がわからなくなってきたところでまとめ。
結論として、特別ってものは無い、ということなんでしょうか?
わしらは普通の下、もしくはその付近での生活をするのがせいぜい。
いやいや、そうではない。
この考えは、全てを普通と見なしたときの意見である。
全てを特別と見るなら、それはまた違う意見があがる。
すなわち、全ては個々で生活している、という考え。
普通という概念をとっぱらえばいい。
基準をなしに、全てを認める。全ての違いを認める。
個々としての存在を尊重し、それぞれの生活を考えてみる。
どうだ、皆違っていてすばらしいじゃないか。
……はいはい、この考えの欠点発見。
そもそも、人の思考はそこまで及ばない。パンクします。処理能力オーバーです。
一つ一つをバラバラに、関連づけず見る。無理です。
元々、人は効率的にモノを考えようとします。
あ、これは前と一緒。あ、これは何かと似ている。
そうすることで、覚えやすく、考えやすくするわけです。
全てを特別と見るということは、わかりやすく言えば食事でごはんならご飯専用の器にご飯専用の箸を用い、味噌汁なら味噌汁専用の器と箸を使う、という考えです。
もっと言えば、味噌汁の中のわかめ専用箸、豆腐専用箸、汁専用取り皿、という感じですか。
となると……人は根本から普通にしがみつくよう設定されている、と言うことなのかね?
うーむ……難しい。
誰か、他に意見ないっすかね?
ごしでやんす。
実は、昨日から地味にカレンダーのしたにカウンターを置いています。
いやはや、こんな機能があったなんてしらなかっt(ぁ
まぁ……やっぱ色々探してみるモンですね。
で、思ったんですが……何気に来客数?が多い気がします。
ってのは、このブログあんまり人に教えてないんですよ。
なのに昨日……10件もあるみたいで。
数えてみたら、まぁ7件までは心当たりがあるんですが……
後3件、何者ですかn
ま、未知の人ですよね。
未知なる襲来。
やばい、ちょっと惹かれるかも(ぁ
さて。
訳のわからんことでウハウハ発情してても始まりませんね。
今日もぐりぐりと人生を闊歩していきましょうか。
不思議な思考って、好きです。
普通じゃないモノにあこがれます。
普段見られないものって新鮮味があります。
普通って、何だろう。
普通は、自分の中の基準で決まるモノでしょうか。
とすれば、そのひとにとって一番の『普通』は自分になるのでしょう。
わしは、他人と比べて自分が普通でない、と考える癖があります。
まぁ要は?自分は特別なんだよどうだ偉いだろ的な思考です。有り体に言えば。
では、ここで自分を普通と置いてみましょう。
自分以外を見渡してみます。
……ふむ。
おお ゆうしゃよ しんでしまうとは なにごとd(ぁ
……違う違う。どっかのパクリだ。
おお どこに ふつうのひとが いるのだろうか。
そういうことですね。
友人を普通と置いてみましょう。
……あ、わし普通じゃねぇな。
でも、わし以外にも普通じゃないのいるよな……
ってなわけです。
普通は、一人じゃ決められません。
普通は、広く周りを見渡して初めて言える言葉です。
普通を知るには、広く世界をしらなきゃなりません。
普通は基準。でもその基準を知るためには、多くを知らなければならない。
微妙に矛盾してますね。基準を知りたいのに、いつの間にか周りを見ている。
基本的に、人は普通に沿って行動しようとします。
その時、その人の「普通」はその人自身が決めています。
普通って言うバリアーに守られていたいんですね。
でもそれじゃおもしろくないから、少し冒険してみる。
この辺が普通だから、ちょっと外れたところに居てみよう。
でも、いざとなったら普通圏内に戻れる位置。
それが、人が最も好む位置なんだろうと。
たまに、普通でない人たちがいます。
その人達は、わしらの「普通」バリアーの外にいます。
わしらはそれをみて言います。
「あいつらはアフォか」と。はたまた「あいつらはすげぇ」と。
皆、普通バリアーの外は蔑視される所であると同時に、羨望として見られる位置でもあるわけです。また矛盾。
そういった人たちには、2種類考えられると思います。
一つは、そこがその人達の「普通」である場合。
先ほども言いましたが、普通バリアーは個人が決めることです。
ですから、わしらからみれば普通外でも、その人達にとっては普通内なわけで。
結局、バリアー内でぬくぬくしてるわけです。
わかる人にはわかるバリアー。つまりはその人達も「普通」に過ぎません。
この人達は、周りを狭い視点で見てるのでしょう。だから一般的普通からは外れている。
しかし、広く見渡せば、その普通は徐々に一般普通に近づいていくこととなります。
時間が経てば、自ずと普通になっていく。長持ちはしない特別。
この特別を保つには、人との関わりを避けるしかないでしょう。
でも、普通バリアーはそもそも人との関わりを持って成るモノ。
すなわち、関わりを断つことでバリアーは消える。
普通の加護の元で生活してきた人が、そこからはい出すのは非常に難しいです。
結局、長続きは滅多にしないモンです。
もう一つ。
「普通」の基準はわしらといっしょであるが、それを極度に嫌う「天の邪鬼」の場合。
この人達は、普通バリアーで守られることをウザイと思っているわけです。
あえて自分の身を危険?な位置に置いておく。
自分の基準にあえて逆らうこの人達は、一体何者なのか。
そうすることで、自分たちに浴びせられる「蔑視」「羨望」の眼差し。
そういったものを好む人たちです。要は特別扱いを好む人たち。
計画的ですね。なかなか狡猾な。
でも考えてみれば、この人達には普通がちゃんと理解できているわけです。
本質では普通。
結局、特別ではないわけです。
さて。訳がわからなくなってきたところでまとめ。
結論として、特別ってものは無い、ということなんでしょうか?
わしらは普通の下、もしくはその付近での生活をするのがせいぜい。
いやいや、そうではない。
この考えは、全てを普通と見なしたときの意見である。
全てを特別と見るなら、それはまた違う意見があがる。
すなわち、全ては個々で生活している、という考え。
普通という概念をとっぱらえばいい。
基準をなしに、全てを認める。全ての違いを認める。
個々としての存在を尊重し、それぞれの生活を考えてみる。
どうだ、皆違っていてすばらしいじゃないか。
……はいはい、この考えの欠点発見。
そもそも、人の思考はそこまで及ばない。パンクします。処理能力オーバーです。
一つ一つをバラバラに、関連づけず見る。無理です。
元々、人は効率的にモノを考えようとします。
あ、これは前と一緒。あ、これは何かと似ている。
そうすることで、覚えやすく、考えやすくするわけです。
全てを特別と見るということは、わかりやすく言えば食事でごはんならご飯専用の器にご飯専用の箸を用い、味噌汁なら味噌汁専用の器と箸を使う、という考えです。
もっと言えば、味噌汁の中のわかめ専用箸、豆腐専用箸、汁専用取り皿、という感じですか。
となると……人は根本から普通にしがみつくよう設定されている、と言うことなのかね?
うーむ……難しい。
誰か、他に意見ないっすかね?
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久々にこの部分いじったわ。
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