彼の名前はごし。いっぱしの兵士だ。
年の頃はハタチ過ぎ。ぬぼっとした顔つきに眼鏡と、およそ戦場にはふさわしくない格好であるが、それでもこれまでに数々の死線をくぐってきた猛者である。
そんな彼は、今日も戦場に向かう。
そう、ここは戦場。
常に多くの人間がひしめき合い、怒号と奇声を張り上げながら敵に向かって突進してゆく。
その戦場の名は「食堂」と言う。
「おばちゃーん!カツ丼大盛りね!!」「ってかかけそばまだぁ~?」「押すな、押すなってこの野郎!?」「野郎じゃないんだけど……」「あー!?私の500円がぁ~」「目が……目がぁ!??」「眼鏡の間違いだろ!」
相変わらず恐ろしいところだ。
皆が殺気立ち、お互いを牽制しあっている。
一つ間違えば、死に直行するのは間違いないだろう。慎重に行かねばなるまい。
歴戦の猛者であるわしは、皆の様に何も考えずにとにかく突進などはしない。
それこそ、素人というものだ。
まずはゆっくりと状況を確認する。
ふむ……中央は素人共がひしめき合い、侵入するラインがない。困難を極めるだろう。却下。
左翼は……む、まずいな。どうやらラグビー部らしい集団がいるな。奴らに巻き込まれたらひとたまりもない。事実、そのあたりには轢かれたらしい人間の残骸が残っている。これも却下。
最後に右翼。ふむ……比較的人が少ないな。ここが一番突入ラインとして適切なのだろうか。
しかしながら、世の中にはトラップというモノが存在する。安易に侵入して、それにより駆逐された人間は数知れない。
……しかしながら、一見したところ罠らしきものは無いモノのように思われる。
これは……悩みどころだ。うかつに入れないからと、機会をうかがえば良いのだろうが、しかし世の中には時間というものが存在する。
戦場が収束に向かう時間まで待っていては、次の講義に遅刻してしまう。
次の講義『物理化学』の教授は厄介だ。遅刻には一切温情を掛けず、全て欠席扱いとしてしまう。
しかも皆の前で、まるでさらし者のように遅刻者をつるし上げる。
まさに鬼軍曹。
それでいて授業はつまらないのだから溜まったものじゃない。
くわえて、授業中に居眠りしようものなら即刻前に引っ立てられ、その時間中立たされることになる。まさにさらし首。
というわけで「食わない」という選択肢も却下だ。
食わなければ腹が減って寝てしまう。当たり前だ。エネルギーが足りない時、人は脳の休息のために睡眠に入るのだから。
脳が体内で一番エネルギー消費率の大きい器官であるのは周知の事実である。
遅刻は絶対するわけにはいかない。しかし食わなければ次の時間は耐えられない。
となれば、今は多少の危険を侵してでも突入すべきだろう。
わしは突入準備に入った。確認事項。
足:靴はちゃんと履いている。ズッパではない。ズッパなどしたことは大学にはいってから終ぞ無いが。
手:素手だ。手袋などをしていては、装備を取り落としてしまう可能性がある。やはり、感覚のしっかりした『素手』である必要がある。
装備:しっかりと武器『500円玉』を握りしめている。問題はない。決して韓国の『500ウォン硬貨』ではない。どこぞの自動販売機のように、このおばちゃんの目は誤魔化せない。そうそうたやすい相手ではないのだ。
どうやら準備万端のようだ。よし。では覚悟を決めて……
突入!
わしは戦場に舞い降りた。
「ぐぅ……」
思った以上の衝撃がわしを襲う。
今まで何度も味わった雰囲気とはいえ、この感覚はいつまでたっても慣れるモノではない。
当たり前だ。生死をかけているのだから。
突入先をあらかじめ侵入しやすい所にしたとはいえ、戦場には違いない。
さて、ここからが腕の見せ所。
わしは体をナナメにして、人混みの隙間を通り抜ける。
「何!?」「ちょっとわりこまないでy」「そこだぁ!」「メガネメガネェ!?」「……頭の上にあるけど」
銃弾(罵声)の網をくぐり抜け、わしは颯爽と前に向かう。
「……!?」
と。目の前に巨大な壁が立ちふさがった。……ラグビー部のデカイ背中だ。
っち……こんな所にもいやがったか!
わしは心の中で舌打ちし、回避を試みる。
しかし周りの連中はここぞとばかりにガードを固めている。わしが横を抜ける隙間がない。
くっ……こいつらまさか小隊編成か!
侮った。やはりトラップが仕掛けられていたか。
しかし、そんなことで思考を止めているわけにはいかない。
はまってしまったからには仕方がないのだ。問題は如何にこれを突破するか。
そう、優秀な兵士とは、如何に臨機応変な対応を見せることが出来るか。
これこそが2流と1流を分ける境目なのだ。
わしは思い切って目の前の背中に攻撃を仕掛けた。
狙いは左横腹。テー!
「ぐあ……」
わしの左フックは見事狙った場所に突き刺さった。一瞬壁がよろめく。
しかし、この程度でやられるような相手ではない。
まともに戦っては勝ち目がない事ぐらいわかっている。
だからこそ、今の攻撃は
手加減した一撃なのだ。
「誰だぁ!?」すぐさま壁が怒りと共に振り向く。
今だ!!
わしは敵が左に振り向く瞬間、右側に出来た隙間に体を滑らせた。
まさに一瞬のタイミング。間違えば命はなかった。
結果としてわしの行動は、これ以上無いぐらい見事に決まった。
敵に姿を見られることなく、前方への侵入に成功したのだ。
……後ろの方で「てめぇかおるぁ!??!」「ヒィ!?な、なんだy」という声とともに鈍い打撃音が聞こえたが、気にとめてはいられない。
戦場で誤爆は良くあることだ。流れ弾が当たることだってある。その流れ弾が実は敵が狙って打ったものだったとしても、打たれた方が気付かなければそれは流れ弾である。
さあ、もう障害は無くなった。目の前には目的のおばちゃんがいる。
ここで最後の難関だ。おばちゃんの注意を如何にして引きつけるか。
いくら先頭に行けたからといって、油断はできないのだ。
ターゲットとコンタクトをとれなければ、この作戦は失敗だからだ。
わしは、500円玉を掲げてこう叫んだ。
「そこの
お姉さん!A定食お願い!」
「あいよー!A定1丁!」
おばちゃんはわしの方を向いてにっこりと笑った。勝った!!
500円玉と引き替えに、定食のお盆を受け取る。
そしてすぐさま戦線離脱。ここでは迅速に行動しさえすれば問題はない。
わしは、戦場から生還したのだ。
こうして、今日もわしは無事生きて昼飯にありつくことが出来た。
しかし、昼飯がある限り、わしの戦いは終わらない。
明日は生きて帰れるかわからないのだ。
いくら優秀な兵士といえど、いつかは倒れるもの。
しかし、その日を少しでも遠のかせるため、今日もわしは日々の鍛錬を怠らないのだった。
終わり